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「企業の社会的責任」という言葉がよく聞かれるようになった。「社会貢献」もその一つとして重要性を高めつつある。低迷を続ける経済状況下にあって、各企業とも生き残りをかけて事業の統廃合や従業員の解雇など熾烈なコスト削減を続けている。その一方で、今や営利企業とて利潤追求一本槍ではやっていけないという風潮も高まっている。しかし、本来利潤を生み出すのに適しているとはいえない社会貢献活動と、利潤の最大化という命題を抱える企業の本質は本当に相容れるのか。かつてバブル期にカネ余り的な状況を背景に、超メジャー級音楽家を招いての冠コンサートや大枚をはたいた名画の購入など、金に糸目をつけないメセナが流行った頃とどう違うのか。企業は実のところ「社会貢献」「社会的責任」をどう考え、自らの企業活動の中にどう位置付けているのか。あるいは企業から見てNPOの「社会貢献」「社会的責任」はどのように映るのか。両者の協働・連携の課題と可能性はどのようなところにあるのか。企業を潜在的な協力者と想定しているNPOも、そうしたことについてはあまり熟知していないのが実情だろう。2回にわたり、企業の社会貢献部門担当者の目を通してCSRについて考えてみたい。
序―CSRという亡霊!?
現在、明るさの見えない景気低迷の中、厳しい市場での生き残りを掛けて各社とも相変わらずの組織改革による効率化やコスト削減あるいはヒット商品の開発に必死になっている。一方で、昨今の相次ぐ不祥事を背景に「企業の社会的責任論」という「亡霊」が、40余年の歳月を経て、「CSR(Corporate
Social Responsibility)」という現代風の化粧直しをして再び徘徊している。
かつて、1950〜60年代には水俣病、ヒ素ミルク事件、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、サリドマイド事件など相次ぐ公害病が発生し、それに伴う訴訟が相次いだ。そしてこの時期に経済界では、「適正利潤」と「社会的責任」についてさまざまな議論が巻き起こった。1970年代には、中東戦争に端を発したオイルショックと狂乱物価を背景にした企業の買い占めや売り惜しみといった社会性を無視した企業の利益追求姿勢に大きな批判が浴びせられた。この時にも経済団体から、「企業の社会的責任」に関する提言や決議を相次いで発表し、企業姿勢への自覚を促した。
にもかかわらず、以降も航空機疑惑、産業スパイ事件、ココム違反事件等等が発生し、さらに最近になっても、薬害エイズ、東海村での臨界事故、脱脂粉乳食中毒、リコール隠し、牛肉産地偽装、無認可添加物混入、鶏肉偽装など相も変わらぬ「企業の社会的責任」が問われる不祥事が後を絶たない。過去に問われたCSRという「亡霊」はいまだに生き続けている。それどころかそれは取り付く企業を次々に変えながら、ますますその光を強めている。企業にとってCSRは、決算の数値のようにあからさまな形で立ち現れてくることはないものの、つねに影のように背後に控えて時に企業の足場を揺るがしかねない存在として立ち現れるのである。
しかし、「亡霊」と言っても、出来れば直視したくない、あるいは捉えどころがない、というものではない。それどころか、「企業の社会的責任論」は、視点を変えれば「企業の存在意義(レゾンデートル)」や「あなたが会社を通じて実現したいものは何か?」という経営者や従業員に対しての究極の問いかけとして実体的影響力を持って存在しているものであり、大競争時代の現在こそ、この亡霊の警告に真摯に耳を傾け、受身ではなくむしろ神の啓示としてその本質的意義を吟味し積極的に取り組む時、その企業の経営的真価が発揮される時代に入ったと感じている。
換言すれば、このCSRへの取組み視点をきちんと整理することによって初めて、今回の主テーマである「企業の社会貢献」の位置付けや取組みの方向性が明確になるとともに、発想を転換させることで新しいフィールドの存在も浮上してくる。なお本稿はあくまで筆者の個人的視点であって、特定の組織の見解ではないことをお断りしておく。
ではまず、企業の社会貢献の実情から見て行こう。
1.企業の社会貢献の概要
(1)企業の社会貢献活動の現状
従来、企業の社会貢献は「利益をもたらしてくれた社会への利益還元」という位置付けが主流を占めていた。そこには、「自社の存在する社会へのお返し」的な意味合いとともに、「社会の健全な発展こそが企業発展の基盤である」という共生の発想があったように思う。しかし近年は社会貢献活動に対して、より積極的な経営上の意味付けをしようとする動きが内外で生じている。
現在、各企業が取組んでいる社会貢献活動のメニューは多様であるが、類型としてはおおよそ次のように大別できる。
@金銭的支援(NPO等への寄付・協賛。企業メセナ。企業財団の設立など)
A会社施設や従業員を活用した非金銭的支援やボランティア活動
B自社の本業あるいは専門性を活用した社会貢献
一方で、企業がどのような経営上の目的で社会貢献を行うかについての確固たる論拠はいまだ明確ではない。勿論、見返りを求めないものこそが社会貢献であるという根強い考え方もあるが、企業内でのコンセンサス形成の論拠としているものについて一応の目的を大別すると、
@社内風土の改善や人材育成
A自社のブランド価値の向上
B本業への何らかの寄与
の3つが挙げられる、各企業はこのうち少なくとも一つを「それなりの」論拠にしていると思われる。たとえばメセナ活動(芸術文化支援)という直接的な見返りが見えにくいものにしても、自社のイメージ向上や顧客とのコミュニケーションツールと位置付けたり、本業で取扱う商品(マルチメディア、ITなど)とイメージ的にリンクしているのが通例である。例外的なものは、幸運にも経営者の意志によるトップダウンがなされ、陰徳的な社会貢献を行っている場合に限られている。しかし大半の企業では、以前に何らかの社内的議論を経て上記目的の@〜Bのいずれかの大儀名分のもとに、社会貢献活動を続けているというのが現状ではないだろうか。
では、その大儀名分で十分満足しているか?というと必ずしもそうではない。今後ますます厳しくなる経営環境の中で、貴重な経営資源を割くには通常それだけの明確な経営上のメリットが存在しなければならないが、現時点で社会貢献がそれだけのメリットを生む明確な論拠があるかという点では相当にあいまいなままというのが実情であろう。ではなぜそうなるのかをCSRの中での「社会貢献」の位置付けを見ることで整理しておきたい。
(2)企業の社会貢献をめぐる議論
@「社会的責任」と「社会貢献」
図1は、Carolモデルと呼ばれるCSRに関する概念図である。下段から順に、(イ)経済的責任(ロ)遵法責任(ハ)倫理的責任、及び(ニ)社会貢献で構成されている。そして右側のグラフは、2003年3月に経済同友会から出された提言、第15回企業白書『「市場の進化」と社会的責任経営』に掲載されたアンケート結果である。「企業の社会的責任とはどれだと思うか?」という質問(複数回答可)に同友会会員企業から回答された集計である(Carolモデルとの対応付けは筆者)。
これで見ると、大多数の会員企業は、経済的責任および遵法責任を社会的責任と認識していることが伺える。これは経営上必要不可欠な目先の問題への関心が当然ながら非常に高いということの反映であろう。一方、社会貢献や倫理的責任については半数が社会的責任と位置付けている。逆に言えばこれらを社会的責任とは認識していない企業が半数あるということでもある。
Carolモデルでは、CSRは「○○責任」と称される三つの部分と、「社会貢献」とされる部分に大別できる。前者は「怠れば何らかの糾弾を受ける」、つまり社会的制約と認識されているものであり、後者は「企業の自由裁量によって〜できる」、いわば社会的課題への積極的取組み意欲が発揮できる分野である。
企業は過去の歴史を通じて、ごく大まかに言うと下の段階から上位の段階へ認識を高めてきているとも言えるが、これは企業自身の自律的成長というよりも、企業と社会(実体的には消費者を核とする人々の声)との関係が大きく変化して来た反映と見るのが妥当であろう。
特に昨今のITの普及によって様々な情報が瞬時に伝播する社会では、消費者等の発言権が相対的に非常に高くなっており、従来の「企業が社会を創造する」構図から、逆に「社会が企業をリードする」構図へのパラダイムシフトが明らかに起きつつある。今後は社会が求めるもの(商品・サービスに限らず、社会的課題への取組み姿勢や経営哲学まで)を企業側がしっかり把握し、これに対して的確なメッセージや経営資源を提供し続けられる企業のみが生き残る時代になりつつあるからである。このような真の意味での「企業市民」たる企業は、顧客・株主・従業員を含めあらゆるステークホルダーから共感と支持を得、結果として成長し続けないはずがない。
しかし、このような理念も具体的論理性を持って経営計画まで反映できなければ机上の空論となる。ムード的なかけ声だけで重要な経営資源の投入を決断できるほど、企業の置かれた事業環境は生易しくはない。企業が社会貢献活動を飛躍的に拡大しにくい背景はまさにこの点にある。まずは企業が社会貢献を進める上での現在の課題にスポットを当てる。
A社会貢献をめぐる課題
実のところ企業は、海外での事業遂行上必要不可欠な場合を除き、自分自身がなぜ社会貢献をやるのか、本当にはよくわかっていない場合が多い。特に経営上の位置付けについて、明快な論理的合理性を持って周知納得しているとは言いがたい。経営者の中でも多様な意見が存在しており、「良い商品・サービスを提供する事業活動そのものが社会貢献である」という認識や、「見返りを求めずにやるからこそ社会貢献の名に値する」という陰徳的な発想まで様々である。「良き企業市民」というキーワードで企業が積極的に社会貢献に取組むべし、という経済界のメッセージは出ているが、そのメッセージの背景となる明快な論理的裏付けは残念ながら見出しにくい。これは確かに一つの弱みである。というのも、前述のように「これが世間の潮流だ!」というようなあいまいなことでは個別企業の経営上の納得感は得られないからである。
よく引き合いに出される経済学者フリードマンの社会貢献に対する批判は、「企業は株主からの付託を受け、利益をあげることに専念すべき」「社会貢献は企業の得意分野でなく、不得意分野に手を出すのは社会経済的損失である」というものである。財務的合理性を追求する経営者にとってはこの説明の方が「世間の潮流云々」よりはるかに明快で納得しやすい。
しかし、もし経営の「最高ミッション(つまり経営上の憲法)」を策定してこれを日常業務の課題解決の指針にまで浸透させることにより企業の求心力を高め、長期的な成長を図ろうとした途端に、「利益至上主義」つまり「全ての判断基準は利益拡大につながるか否かである」というだけのコンセンサスは破綻する。
かつての公害問題をはじめ、最近も発生し続けている利益至上主義に起因する数々の不祥事を見れば、これは明らかである。当然ながら、企業にとって「社会との良好な関係性」が事業活動の永続性の大前提である、ということは企業自身も感覚的には分かっている。しかし、利益を最大化するという至上命題と戦いながら、一方でそれなりにコストがかかるにもかかわらず、直接経営上の目に見える成果に結びつかない「社会貢献」をどう位置付けたらよいのか?この問題については、十分煮詰めきれていないというのも事実である。
B企業の社会貢献に対する現状認識
企業はそれなりの大儀を持って「社会貢献」に取組んでいると先に述べた。しかし、実はその大儀について社内的に十分な議論がなされていないケースも多い。なぜなのか?
一つには、前述のように社会貢献はやってもやらなくても経営に直接の影響を与えるものではない、という認識がある。「慈恵(社会貢献)は実践されなくても害はないが、正義(○○責任)は強制する必要がある」という認識にとどまっているために、優先順位はどうしても低くなる。
二番目に、他の経営指標と異なり、目標設定や業績評価の定量化の困難さがある。「何を目的に」社会貢献を行うのかが明確でなければ、当然定量的目標も設定できず評価もできない。となれば、その責任者はより明確に評価される仕事に関心を払うのは当然である。
三番目には、実は情報の欠如がある。社会貢献に対する経営層の関心が薄い場合は、社会貢献担当者に積極的に現状を聞くこともなく、担当者からたまに説明する場があっても関心を示すことは少ない。これが悪循環を繰り返し情報欠落が生じるケースが多い。
四番目には、あまり議論されないことであるが、社会貢献活動の成果が個人的な感想や自己満足にとどまりやすいという点である。つまり、活動を通じた成果や喜びが社会貢献担当者にしか実感されないという問題である。これは当事者以外の人にいくら細かく口で説明しても理解してもらいにくい感覚であり、活動の結果としてどのような効果があったかを客観的に示すことが難しい。これがまた社会貢献活動に日常接していない経営者の納得感を引き出しにくくしている。
五番目には、NPOという言葉は知っていても、その実態を知る経営者は少数である。その理由は彼らの日常業務にNPOが関与してくることは極めて稀だからである。これは経営者に限らない。一般の従業員にしても、社会貢献担当者(あるいはボランティア経験者)ほどNPOについて肌で知っているものは社内にはいない。
このような状況では、自社の社会貢献活動がメディア掲載された時などはそれなりの関心を持つ場合があるにしても、社会貢献活動が日常的に、少なくとも財務諸表や業界情報以上に関心を持たれることは稀である。経営層としても社会貢献を全社的課題として取上げるのは至難の技となる。
では企業の社会貢献活動は、今後も上記の課題を抱えたまま従来通り地道にコツコツと継続されるしかないのか?社会貢献活動の未来に新たな展開の道はないのか?CSRへの取組みのありかたを俯瞰しながら、この点に焦点を当てて行きたい。
2.社会貢献と社会的責任をめぐる最近の動向
まず、CSRに対する企業の視点を見てみよう。
(1)CSRへの経営上の視座
各企業は、相次ぐ不祥事により経営危機に瀕した他社事例を目の当たりにし危機感をもっていることは事実である。既に内部告発制度を設け、不祥事に対して一応の積極的な姿勢で臨もうとしている企業も増えつつある。このような企業姿勢は、自らを律するすべを知らない企業に比べれば確かに社会的意識に優れた企業として一定の評価は受けることが出来よう。
しかし前述のようにCSRのうち、Carolモデルで「○○責任」とされる部分は、企業にとって社会からの糾弾を避ける一種のリスク回避の対象と認識している限り、やってあたりまえのことに対応しているに過ぎない。このような受身の対応に終始するのであれば、CSRは企業にとって経営上の積極的な課題として取り上げるほどのものにはなりえず、いわば企業のDNAに組み込まれたモニターとして企業の諸活動を内面的にチェックする役割を果たせばよいという域を出ないであろう。現在進められているCSRの国際規格の動きについても、おそらく大方の企業は関心を示すけれど、積極的にこれをリードして行こうとしているのはごく一握りの企業に限られる。これは現時点でもなお残る企業の社会的後進性を示すものでもある。
人間の例で考えると分かりやすい。人は反社会的行為をすると必ず報復があり、厳しく罰せられる。そしてそれは小さい頃から家庭や学校あるいは社会から日常的に繰返し刷り込まれているから、違法行為を働こうとする前に通常は本能的に大きなブレーキがかかる。では、ブレーキをかけた人に対して周囲が賞賛を送るかというと、それは当然のこととして認識されるだけである。
企業という法人についても同じである。「○○責任」を果たしたからと言って、ステークホルダーから大きな賞賛を受けるとしたら、それこそ企業性悪説に立っているとしか思えない。しかし過去の歴史を振り返ると、現実には企業性悪説に立たざるを得ない状況があり、現時点ではCSRへの取組み自体が経営上真剣に考えるべきテーマになりうるのである。今後の問題はCSRへの基本的視点のあり方である。「社会的責任をきちんと果たします」という至極当然のことをわざわざ世間に宣言するにとどめるのか、あるいはCSRへの取組みを新たな長期経営戦略の最重要な柱と位置付け、次の時代への飛躍を図るための取組みを開始するか否か、である。この意味で、今こそ経営者としての視点の高さが問われていると言えよう。
(2)新しい取組みの視点―CSRの「経営戦略」への組み込み
「戦略的CSR」についての詳細な議論は、本稿では割愛するが、実は社会貢献への取組みについての考察から引き出されるべき経営戦略上の視点がある。この視点を考えることは同時に「戦略的CSR」への取組みの方向性も示唆することになる。先ほど人間と法人を対比したが、次回は「法人が人に近づく道」あるいは「企業を通じて人が何を目指すのか」という点に留意する。そして特に社会貢献のあり方にスポットを当て、企業やNPOの今後の取組みの方向性について考えてみたい。
(春井徹郎/大阪ガスいきいき市民推進室長・大阪NPOセンター理事)
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